DUNKSOFTオフィス物語#
第4章 神田Nkビル#
会田社長が亡くなる半年くらい前に#
人が増えて会議室が無いのでと近所に小さな社長室を借りて 女性総務部長とそこで仕事をしていた。 社長が亡くなり2年で解約した。
半導体製造装置が半導体不況で無くなって 主力の開発が 食品関連の自動倉庫に変わっていく。
NECとの関係は繋がっていて 矢向の向上でレーザーでディスクの試験装置などの開発。
富士通関連もCECからの仕事で 銀行端末の開発など制御系も一部残る。
さらにNEC関連の会社から AIの会社に転職した 電通大学出身の天才 AMANOさんがAIの会社の仕事を紹介してくれて NIKKO証券や HANKYUU電鉄のAIの業務をすることに。
AMANO氏はその後SONYに転職してAIBO初号機に関わったらしい。

富士通と直接取引できる仕事も WINDOWS3で OCR文字認識システムを開発したり#
(文字認識自体は 富士通、沖電気などですでに経験はしていた。)
LAの会社と提携して 新学社のCAI(コンピュータを利用した学習システム)開発。
IMAGEBASE 画像データベースシステムを日本語化して 販売することに。WINDOWS-WORLD第一回に出展 ビルゲイツ社長 成毛真社長とも意見交換など(幕張メッセ)
AI関連の会社がIBMの仕事も受注していたので LAの会社から開発メンバーを日本に呼んで中央林間の仕事もしていた。 当時の開発担当の TUAN NGUYEN氏が5月中旬に来社予定。彼のニックネームはALAN
彼以外に台湾や中国、韓国などの人たちとも仕事をした。 それぞれ Charles, Jamesなど英語名を付けるが普通だった。 晃一郎 星野 ともに発音しづらいため ROBERTを名乗るようになる。
<バブル崩壊> 90年代頃は 不況の波が末端まで届くまでに時間がかかり 富士通のOCRの仕事が無くなるまで半年くらいの猶予はあったが。それでもパタッと色々な仕事が止まり 一方で25人以上も社員がいたので92年の末に給与が遅配。 小さくして再出発を決断 グループで独立したり 受注元の企業に就職あっせんしたり。 結果的に93年春に4名から再スタート ACCESSを中心とした業務系アプリ中心の開発に舵を切る。
広告代理店の仕組みや 医学系出版社 関西の建築会社の営業システム PROJECT管理のシステム会社と組んで 大手建設会社の工程の最適化 などを開発。
<義理かんり>#
渡邊さんがPROJECTに関わった最初の製品。 ACCESSはデータベースで最も重要なデータは人。 人脈を管理する製品をつくろう。 お中元、お歳暮、年賀状などのタイミングで情報を更新し、あて名書き、リストなど印刷できれば便利だろうと。
顧客管理のパッケージ “義理かんり”を開発 マイクロソフトのPRODUCTマネージャーからオープンソースにしたらマーケティングを助けると言われて 口約束で承認。 マイクロソフトのACCESSのダイレクトメールに チラシと〒振込用紙を入れてもらい(印刷代などは弊社持ち) いきなり1300本売れる。
以後、ACCESSのバージョンが変わるたびにDMに入れてもらい 合計4000本くらい売れた。
<最後のバージョン 97Plus ロゴも懐かしい>
ここで勘違いしてLAOXなど流通に載せたらもっと売れるのではと3000万円ほどかけてパッケージを作り3000本作ったが 10本程度しか売れず。 作ってくれた印刷会社に多額の借金が。 支払う代わりに印刷会社の営業支援システムを 先方のオフィスに常駐しながら開発納品した。

リアル班のミッション!#
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